楽天グループの創業者である三木谷浩史氏は、およそ15年で楽天グループを急成長させた実力を知らない人はいないでしょう。では、なぜこれほどまでにビジネスの成功を遂げたのかという理由と、失敗談も含め解説していきます。
これからビジネスを始めたい方や、学びたい方は参考にしてみましょう!
三木谷浩史氏の経歴まとめ
三木谷浩史氏の生い立ちをまとめました。
1965年 神戸市に生まれる。
1988年 一橋大学商学部を卒業後、日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)三菱商事に入社する。
1993年 ハーバードのビジネススクール入学後、MBA(経営学修士)を取得
1997年 楽天市場を設立し、インターネット通販事業に参入する。
2002年 楽天株式会社を設立し、代表取締役社長に就任する。
2005年 楽天証券を設立し、オンライン証券事業に進出する。
2010年 楽天がプロ野球球団「楽天イーグルス」を買収し、オーナーに就任する。
2012年 楽天がKoboを買収し、電子書籍ビジネスに進出する。
2019年 楽天モバイルを設立し、格安スマートフォン事業に参入する。
では、三木谷氏の幼少期や学生時代、社会人になってからの活動、そして楽天市場を設立し、楽天グループを急成長させた背景を見てみましょう。
幼少期〜高校時代の三木谷氏
神戸市で育ち、小学生の頃は落ち着きがなく、じっと座っていられない子供だったそうです。また、学業成績は悪く、関心のないことは全く取り組む様子がなかったようです。
ADHDやアスペルガーの傾向があるとも言われており、両親の勧めで全寮制の中高一貫校に進学するも、そのスパルタ教育の風潮に馴染めず中退してしまう過去もありました。また、中学生からタバコやギャンブルに手をつけてしまうという、やんちゃな側面もあったようです。
高校入学までは、問題児とも言われており、両親も心配だったかと思いますが、テニスの部活動に励み、テニスのジュニア大会でベスト16という記録を果たすほどの実力があり、この頃はプロテニスプレーヤーを目指し、大学には進学しないつもりだったそうです。しかしながら、高校2年生の時の大会で優勝できなかったことをキッカケに、プロになる夢を諦め、大学進学を目指すことになりました。
この頃、三木谷氏は全く勉強しておらず、校内での成績は350人中320番だったそうですが、猛勉強をして、高校3年生の時点では、国立大学の神戸大学に受験できるまでのレベルに成長を遂げました。
リベラルな校風に憧れ、難関国立大学である一橋大学の入学を目指し、経営学部と商学部の進学で迷いましたが「金融論」が商学部にあるという父親からのインプットにより、浪人の末、商学部への進学を果たしました。
ここすご!ポイント
一度は夢に敗れるもシフトチェンジが早く、新たな目標を定めて、その目標に必要である勉強を成績下位から日本トップレベルの大学に入学できるまで、諦めずにやり続けたこと。
この時点で「めっちゃすごいやん…」と思うのですが、続けていきましょう。
大学進学、そして日本興業銀行への入行を経てMBA(経営学修士)取得
一橋大学に進学し、金融論ゼミである「花輪ゼミ」に所属し、自由な議論が可能で、色々な科目が取れる大学の風潮が向いていたようで、大学生活を謳歌しました。知的で刺激的なディスカッションの経験が楽しかった、とインタビューで語るほど濃厚な毎日を過ごしていたようで、「企業の資金調達と資本の最適構成」というタイトルの卒論を出すほどの金融について学びを得ました。
また、部活動でも、部員が100人を超える硬式テニス部に在籍し、3・4年生の頃にはキャプテンを務め、「鬼のキャプテン」と呼ばれるほど自分にも厳しい様子でした。そのような側面もありつつ、「いくらボールを拾ってもテニスが上手くならない」と感じていたことから、長年続いていた新入生の球拾いを「無駄」だと判断し辞めさせるなどして、先輩後輩の昔ながらの仕来りを排除し、リーダーシップの原点となりました。
インタビューでも、三木谷氏のマネジメントスタイルや哲学の原型は、キャプテン時代に形成されたと述べています。部員100人のテニス部のキャプテンの役割は、まさしく100人の中小企業の社長のようで、財政的運営から、チーム強化策、練習スケジュールや施設のマネジメントまで担う役割だったとのことです。この経験が後の楽天グループ急成長を遂げるための重要な知恵になるのです。
ここすご!ポイント
大学の部活動でも目の前に与えられた役割に本気で立ち向かい、長年続けられた仕来りであっても無駄だと思うことは流される事なく排除し、多くの人を率いるためのチームマネジメント力を養う経験をしていたこと。
大学を卒業し、三木谷氏は日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。名古屋支店を経て、本店の外国為替部配属になりました。また、1991年の結婚後、ハーバードのビジネススクールへ入学。1993年の在学中にMBA(経営学修士)を取得し、企業金融開発部で国際的なM&Aを担当していました。
それほどまでの華々しい経歴を持った三木谷氏が、なぜ起業を考えたのか?ーーーーそれは、このビジネススクールでの経験がきっかけになったのだそう。
ハーバードのビジネススクールは、実践的でビジネスリーダーとしてのトレーニングを学ぶ部分があり、ビジネススクールの中でも教育方針がケーススタディ中心である点が三木谷氏としては惹かれるポイントでした。というのも、三木谷氏は教科書で勉強することが苦手で、一橋のゼミでもやっていたように、ディスカッションやディベートを通して、知識をつけるのではなく「考える力をつける」スタイルが得意だったようです。
また、「アントレプレナーシップ(Entrepreneurship: 起業家精神)」の位置づけの日本との違いに対し衝撃を受けたそうです。「大企業という枠組みの中で考えるのではなくて、アントレプレナーシップを持って新しいことを始め、イノベーションを起こしていくのかが一番重要」という考え方に出会うこととなりました。当時、日本興業銀行(興銀)という、日本の大企業の代名詞のような企業で務める三木谷氏は、「アントレプレナーシップ」という言葉も知らないまま、ビジネススクールに入学していました。日本でも「ベンチャー」という言葉は浸透するも、「アントレプレナーシップ」はほとんど知られていませんでした。
この頃、会社から社費留学をさせてもらっていたことから、帰国後いきなり起業というわけにはいかないとは思っていたものの、「いずれ起業して自分でやってみる選択肢がある」という気持ちが芽生えたと言います。
日本に帰国後は、企業金融開発部という部署でM&Aのアドバイザーとして務め、ソフトバンク創業者の孫正義氏やベネッセコーポレーション社長(当時)の福武總一郎氏、パソナグループ創業者の南部靖之氏など経営陣が一番の顧客となりました。その経験もあり、「いつか」自分でやってみたいという気持ち募っていた頃、故郷である神戸が阪神淡路大震災で崩壊し、敬愛していた祖父と祖母を亡くしました。居ても立ってもいられなくなった三木谷氏は、何もかも一瞬にして無くなってしまった現実を見て、人生というものは1回限り、有限資源だということを知り、現地に足を運んで1週間後、今すぐ起業することを決意したのです。
チャレンジの精神の背景にはこのような事実があったものの、三木谷氏は、日本興業銀行にい続けることに対しこう語ります。
「日本の企業は約400万社あり、そのうち大企業は1割にも満たない数で、ほとんどが中小零細企業である中、日本興業銀行にい続けては日本のほとんどを支える中小零細企業を見ないで国を動かしているような錯覚に陥る」と。また、「これからは個人や中小企業が既成事実を積み重ねて新しい社会を作り、日本を変えていくんだ」と語ります。
ここすご!ポイント
知識や知恵は手段でしかなく、考える力を身につけ仕事に取り組んだ。また、大企業に一度は務め実績を成すも、その環境に身を置き安定の中で成長を止める事なく、様々な経験を通して本質に気づき、決意をして行動したこと。
どこまでも、どんな立場でも本質を見間違わない三木谷氏に勇気づけられる人は多いでしょう。
後悔が1番のリスク!起業を経て、成功を収めた2つの理由とは
大震災を目の当たりにし、「いずれ人間は死ぬ」ということを意識したことで、起業することで食っていけなくなることのリスクよりも、起業せずに後悔をしながら時間が経つことの方がリスクだと思い、起業を決意した三木谷氏。今の楽天グループである株式会社エム・ディー・エム設立した時は32歳でした。
三木谷氏は起業アイディアとして、100を超えるアイディアがあったそうです。地ビールの小規模醸造所の全国展開や、アメリカの天然酵母ベーカリーの日本でのフランチャイズ展開、コンタクトレンズの並行輸入など、多くの案があったのですが、元手が掛からず、将来的にも社会に価値を生み出すインターネットショッピングモールでの起業をはじめました。社員6名の会社でスタートし、楽天市場サービスを開始しました。
ポータルサイトやショッピングモールというアイディア自体は既にアメリカにもあり、同じ仕組みで新しく新サービスを作ることは厳しいと思える状況にも関わらず、楽天市場が成功をした理由とは何だったのでしょうか。ーーーーーー三木谷氏はこう語ります。1つは、本当に良いソフトウェアを作ったこと。「誰でも簡単にインターネットショップを開くことができる」そういうソフトウェアを作り上げるために自前で、かなり長い時間をかけて作り上げたことだそうです。さらに、AmazonやアメリカのYahoo!はIPOの前に200億ほど資金調達していたようですが、楽天市場は2,000万円の調達だったようで、2つ目の成功の理由として、三木谷氏自身も含む社員6人が一丸となり、汗水流して営業をしたことだと言います。熱意を持ち、数を回ることで少ない予算の中でも、大きく成長できた理由です。
ITの普及が広がった今は、こういった営業活動と、先進的なサービスを利用してサービス提供の幅を広げることが企業を強くするポイントだと言います。
ここすご!ポイント
人生の中で「後悔すること」を1番のリスクと考え、その他のリスクを取り起業という行動をし、少ない予算の中でも、本当に世の中にとって良いと思うサービスを根気よく作り、熱意と数を回る営業力で成長に拍車をかけたこと。
楽天市場のコンセプトができるまで
楽天市場のコンセプトができるまで、三木谷氏の中で以下の4つの仮説がありました。
- インターネットは、もっと簡単に、もっと便利になる
- インターネットは、爆発的に普及する
- 日本人は、インターネットでモノを買うようになる
- インターネットで流通が変わる
現代は当たり前となったインターネット利用ですが、当時は電話回線を利用するダイヤルアップ方式のインターネット接続で、最大速度128kbpsほどの低速通信の時代、この仮説を伝えたところで、誰も信じる人は少なかったのです。
しかしながら、三木谷氏率いる創業当時のメンバーは、誰よりも可能性を信じ、地方の商店や大きな店舗を持たない店でも、全国規模を持つ大企業と同じ土俵で戦えるフィールドを作りたいという情熱を持ち、全国に足を運び、熱意を持って中小零細企業に営業に回りました。解説当初、出店をした店舗は13店舗だったそうです。
当時先行するショッピングモールでは、出店のWebページ制作は専門業者に委託をしていたため、そういった知識や経験がない「商売人」は、手をつけることができませんでした。また高額な費用がかかってしまうため、更新頻度も少なく、最新の情報が更新されないことから過去のセール情報が残ったままのページなどが多くなり、ユーザーも増えず、寄り付かなくなってしまっていました。
そこに目をつけた三木谷氏や創業メンバーは、「インターネットの操作が上手い人」ではなく、「商売が上手い人」が簡単にページを作り、インターネットで商売ができる仕組みを提供することをコンセプトとして掲げていました。
また、「楽天市場」のサービスの名称は、このコンセプトの通り、明るく前向きな「楽天」という文字と、織田信長が始めた誰でも自由に商売ができる「楽市楽座」でできた「市場」を組み合わせて、誕生しました。
このコンセプト通り、今までインターネット販売に手をつけていなかった企業や、手をつけても黒字化できなかった企業も参入し始め、出店者に優しい、分かりやすく安い出店料や手数料などの価格設定だったため、買う側だけでなく売る側にもサービス提供をすることができ、多くの人が利用し、まさしく「楽市楽座の市場」のような領域を作ることに成功しました。
ショッピングモール「楽天市場」で成長し、さらには「楽天オークション」の前身となる「楽天スーパーオークション」のサービスを開始し、株式会社エム・ディー・エムより、「楽天株式会社」へ社名変更しました。
ここすご!ポイント
中小零細企業のウィークポイントを見つけ、売る側にもサービス提供を図り、分かりやすく使いやすいサービスを仕組み化し、三方良しの勝ちパターンを実現したこと。
M&Aで急成長、そして失敗
楽天の企業理念「イノベーションを通じて、人々と社会をエンパワーメントする」をモットーに、社名変更後、楽天市場の出店者にネットショップ運営のノウハウを提供する「楽天大学」を開設し、さらに出店者のサービスの幅を広げるため動きました。また、日本証券業協会(現 東京証券取引所JASDAQ)へ株式を店頭登録し、株式を公開することで企業としての認知度を向上させました。それにより調達した資金がなんと約500億円にも登ります。
その後は、M&Aを駆使して様々な分野で事業の買収やサービスの展開を進め、成長の勢いが止みません。積極的に買収した事業は、のちに楽天銀行や楽天証券、楽天カード、楽天トラベルなど、楽天の成長を支えるものとなりました。もともと、日本興業銀行で勤めていた時代にM&Aのプロとして経験をしていた腕前を発揮したのです。
三木谷氏自身の個人資産も2,590億円と、アメリカの経済誌「フォーチュン」の若手富豪ランキング6位に選ばれるほどのものでした。順調に成長を遂げつつも、大きな挑戦により多額の損失を生むこともありました。2005年に1,000億円以上の資金を投入し、経営権を取得しようとTBS株の20%弱を買収することができましたが、楽天側としては、経営権の獲得を見越した経営統合の提案としての買い付けでしたが、TBSはそれに反対し、認定放送持ち株会社に移行する吸収分割というM&Aを実施。放送法により、認定放送持株会社については特定株主が総議決権の3分の1以上を保有できないため、経営権を取得することができませんでした。敵対的な買収という形となり、TBS側の3年半の攻防により、買収を断念することとなり、約650億円の評価損失となりました。
しかしながら、三木谷氏は、2005年はインターネットとテレビが非常に近づいた年と考え、光ファイバの普及など変化は急速に起こり、3年もすれば「三木谷の言うことは正しかった」と思ってもらえる可能性があ理、経営統合を行なうことでネットとテレビの融合が行なえると主張していました。
このように楽天はTBSの買収に失敗しましたが、放送法の適用されない企業が相手であった場合は、違う結果になっていた可能性もあると言えます。
ここすご!ポイント
前職の経験をで培ったM&Aの腕前を発揮し、楽天を急成長させたことはもちろん、大きな失敗をするものの可能性を信じ、失敗の大きさと比例する大きな挑戦を続けたこと。
プロ野球界に投資領域を拡大し楽天イーグルス誕生
2004年、近鉄球団の経営悪化によりオリックスとの合併問題が浮き上がったが、三木谷氏はその空いた席に立候補し、新球団「東北楽天イーグルス」が誕生しました。日本で球界に新規参入するのは50年ぶりだったので、日本中から注目を浴びることとなりました。
この頃、サッカーのJリーグチーム「ベネッセ神戸」のオーナーでもあった三木谷氏でしたが、プロ野球機構への印象は良いものではありませんでした。ライブドアの堀江氏が近鉄バッファローズの買収に言及していましたが、全く聞き入れることが無かった球団へのイメージは悪く、当初、三木谷氏はプロ野球機構へ関わりたくないとも言っていたようです。
しかしながら、球団経営参入をしたワケとは?ーーーーーー理由は、野球ファンはインターネットを使わない層が多いため、まだ獲得できていない層への認知アプローチのためだと言います。また、サッカーファンはネットを使う層との重なりが大きいけれど、野球はそうでもないと狙いを定めていました。パソコンでネットを使わない層に対しては、携帯電話やTVのネットサービスなど、パソコン以外の方法でアプローチをする計画を立て、球団経営の参入に立候補をしました。
最初にライブドアも立候補していましたが、楽天の立候補により新規プロ野球球団参入の闘争が始まる結果になり、楽天は、ゼネラルマネジャーとしてスポーツライター・評論家のマーティ・キーナート氏と、数々の球団で選手として活躍した田尾安志氏を監督とし、準備を進めていきました。また、トヨタ自動車の会長をはじめとし、三井住友銀行頭取・全日空社長・みずほコーポレート銀行社長など、多くの財界のメンバーを集め経営顧問委員会を設立しました。これだけの人脈があり、また集結させることができたのは三木谷氏の人徳なのではないでしょうか。
ライブドア側も準備を進めていましたが、検索サイトから成人向けサイトが閲覧できることを問題となり、問題視されることなく準備を進めた楽天が球団参入を果たすこととなりました。
設立当初の成績は、リーグ最下位という結果が多かったのですが、2009年にクライマックスシリーズ進出、2013年には日本一になる結果を出し、素晴らしい球団へと進化を遂げました。また、経営面を見ても、参入当時はパリーグ他球団では40億円の赤字を出していたのですが、楽天は1,500万円の営業利益を計上し、三木谷氏の経営の腕が発揮され、球界を驚かせました。
ここすご!ポイント
明確な目標を定めると、今までの意見に拘らず、計画を綿密に立て、自らの人徳を武器に多くの名高いメンバーを味方につけたこと。また、新規参入にも関わらず、球団としての成績の面や経営面の結果を数字に表すことを実現させ、さらなる信頼を獲得したこと。
海外への展開をきっかけに、業務での日本語禁止を決定
さらに、楽天の勢いは止まらず、国内信販株式会社を子会社化し、クレジットカード決済「楽天カード」の発売や、米国アフィリエイト市場に参入、楽天エコシステムの構想、EC事業で初の海外への展開など、様々な大きな展開を見せました。2012年にはKobo Inc.(現 Rakuten Kobo Inc.)を完全子会社化し、電子書籍事業に本格参入し、電子書籍サービス『電子ブック楽天<kobo>』(現 『楽天Kobo電子書籍ストア』)を開始しました。
アメリカへの参入や、台湾やタイに拠点を築き、楽天市場のようなインターネットショッピングモールを開設するなど海外事業への展開も広げ、目まぐるしく企業としての成長と遂げる中、三木谷氏はさらに効率的に事業を進められると感じていました。海外進出をし、通訳を介し会話をすると、どうしても会話スピードが遅くなることを弱点と見て、楽天グループの社内公用語を英語に正式移行し、業務での日本語は禁止となり、全社員TOEICスコア600点以上を取ることが方針としました。その結果、TOEICに関しては平均スコア800点を上回る結果となり、日本で培ったノウハウを海外へ伝えるための障壁が無くなりました。
楽天の外国人社員が日本語の習得にかかった時間は平均3カ月のため、1000時間の勉強時間で日本人社員も英語の習得が可能という仮説を立て、1日2時間の勉強時間をとることで、2年後には完全に習得ができると見て、開始から2年後の2012年に社内公用語を英語に正式移行すると決めたのでした。
ここまでの社内改革を行い、業務の効率化と成長を果たしたのは、三木谷氏による仮説と実行、検証の末の仕組み化を成したからこその結果なのでしょう。
ここすご!ポイント
成長を止めず、効率化を妨げる問題点に着目し、改善のために仮説→実行→検証→仕組み化のサイクルを築いたこと。
キャリアへの新規参入「楽天モバイル」誕生
さらに楽天は、格安スマホ事業(MVNO)から始まり、携帯電話基地局の建設を開始し、楽天モバイル株式会社としてキャリアの仲間入りを果たしました。
キャリアへの新規参入を目指した理由としては、スマホの普及やスマホからのアクセスが、パソコンのを上回ったことから、スマホからの楽天へのアクセスが重要になるからだと言います。現在では、楽天市場における売上につながるアクセスはスマホからが6割を占めます。
参入を試みた当初、基地局建設のプロなど、楽天社内にいるはずありませんでしたが、全社員からより当事者意識の高い400人の社員を楽天モバイルに異動させました。多額の資金が必要となるキャリアへの参入のため資金調達をし、総額数千億円を注ぎ込んででも挑戦をした理由とは?ーーーーーーそれは、楽天モバイルの通信量の収益を目的とするものではなく、EC事業や金融事業など楽天の事業資産を結びつけることで、収益を確保し、複合体で全体を伸ばすことを目的としていました。そこから出てくるクレジットカードデータ、そこに紐づくロケーションデータなどから、独自の広告ビジネスや投資活動につなげることを目的としました。
ゼロから基地局を展開したことで、巨額の投資を行い大きく赤字となりましたが、これからは徐々に損失を圧縮し、黒字化へ向かっていくと三木谷氏は予測しています。
ここすご!ポイント
ビジネスを点で捉えるのではなく線で繋ぎ、長期的な目線で見て、大きな収益を見込めることを確信すると共に、その予測を現実にするための行動力と巨額の投資を試みる挑戦をし続けたこと。さらに社員を率いるリーダーシップは経営には欠かせません。
失敗力を鍛え、誰よりも早い“仕組み化”がビジネス成功の鍵
次々と見せた楽天の成功には、もちろん大きく失敗となった経緯もありました。しかしながら三木谷氏は「失敗を失敗と思わない」ことが大切だと言います。三木谷氏の言葉で失敗に対し下記の発言を述べています。
失敗力とは、失敗を恐れない力。失敗というのはほとんどの場合、後から振り返ると大したものではない。だから、やってみてダメだったら止めればいいというぐらいのスタンスでいるのが“スマートミステイク”だと思う。日本人は特になんとなくの失敗を恐れ過ぎる傾向があり、時には社運をかけて勝負に出ることが必要。(一部抜粋)
CENT Japan
つまり、失敗があるからこその成功であり、恐れる必要は全くもってないのです。
そして、楽天グループは下記のコンセプトを掲げています。
1. 常に改善、常に前進 2. Professionalismの徹底 3. 仮説→実行→検証→仕組化 4. 顧客満足の最大化 5. スピード!!スピード!!スピード!!
ビジネスの失敗は検証の結果で、成功への道筋の過程ということ。常に顧客満足の最大化を目的に圧倒的なスピード感を持って、プロフェッショナルな仕事に取り組むことや、そのために常に改善に努め、誰よりも早く、仮説→実行→検証→仕組化のサイクルを止めずに熱意を持って取り組むことで、成功に繋がることが言えます。
ここすご!ポイント
大きな失敗を失敗と思わず、最強の失敗力を持ち、社運をかけて勝負に出たこと。また、コンセプトの通り、誰よりも早く仕組み化を築くことでビジネスの成功や展開を成したこと。
この記事では、三木谷氏の人生を通して、成功のプロセスやビジネスの取り組む際の真髄を学び、これからビジネスをはじめたい方や参考にしたい方への成功を導くために、役立つ情報となったのではないでしょうか。